レムナント・ブログ(久保有政)

聖書、日本、世界、歴史、科学、社会、経済等について。

よみはセカンドチャンスの場

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死後理解の混乱

信者と未信者の死後

 人は死んだらどこへ行くのでしょうか。
 この地上で神を信じ、イエス・キリストを「救い主」「主」と仰いで生きた人は、罪赦され、神の子とされ、祝福の人生を与えられると共に、死後は天国へ行くと聖書は語っています(Ⅱコリ5・8、ヨハ14・2)。
 天国は神とキリストの愛と恵みに満ちた世界で、永遠の命と至福の世界です。
 では未信者として亡くなられたかたは、死後どこへ行くのでしょうか。
 私の周辺でも最近、未信者のまま亡くなられた方がいました。とてもいいかたで、お世話になったかたです。みなにも信頼されていました。
 しかし、こうした未信者として亡くなられたかたの死後の行き先については、悲しむべきことに、今のキリスト教会には大きな混乱があります。
「イエスを信じないで死んだかたはどこへ行っていますか?」と牧師に聞くと、ある人は「よみに行っています」と答え、ある人は「地獄に行っています」と答えます。
「よみと地獄は同じですか?」と聞けば、「違います」という人もいれば、「同じようなものだね」「同じだよ」など、いろいろな答えが返ってきます。「そこへ行ったらそのあとはどうなるのですか」と聞いても、いろいろです。
 本来、クリスチャンのみならず、未信者のかたの死後のことは、聖書理解の上で非常に大切なことのはずです。ところが一番大切なその問題に、混乱がみられるのです。
 混乱がありますから、たとえば、
「私の先祖はキリストの福音を知らずに死んだのですが、彼らはどうなっているのですか? 彼らに救いを与える手立てはないのですか?」
 と聞いても、良い答えや明確な答えのできる人は少ないのが実状です。これはじつに残念なことです。
 しかし、まずみなさんに知って頂きたいことは、未信者として亡くなられたかたは、地獄ではなく「よみ」(黄泉、陰府、ギリシャ語ハデス、ヘブル語シェオル)へ行っているということです。聖書はそう教えています。
 この「よみ」は「地獄」ではありません。全く別の世界です。地獄と同じような世界でもありません。よみは一般的な死者の世界です。
 天国は神の国ですから、神を愛し信じる人々が入れられている所です。一方、それ以外の人はみな「よみ」という死者の世界に行っています。
 死んで「よみ」に行った人々は、ある者は慰めを、ある者は懲らしめを受けたりして地上の人生を思い起こす時を与えられます。
 よみに行った人は、世の終わりの「最後の審判」の時までそこに留め置かれ、その審判の法廷で最終的に、神の国(天国)へ行くか地獄へ行くかが決定されます。

死はチャンスの終わり?

 それが聖書の教えなのですが、カトリックやプロテスタントにおいては、しばしば、よみは地獄の単なる別名のように理解されてしまっていることがあります。そして「未信者は死後即、地獄に行き、もはや何のチャンスもない」と思っている人が、数多くいます。
 かつて16世紀に日本に来た有名なカトリック宣教師フランシスコ・ザビエルも、そうでした。彼は日本での宣教について教皇庁にこう書き送っています。
「日本人を悩ますことの一つは、地獄という獄舎は二度と開かれない場所で、そこを逃れる道はないと、私たちが教えていることです。
 彼らは亡くなった子どもや、両親や、親類の悲しい運命を涙ながらに顧みて、永遠に不幸な死者たちを祈りによって救う道、あるいはその希望があるかどうかを問います。
 それに対して私は、その道も希望も全くないと、やむなく答えるのですが、これを聞いたときの彼らの悲しみは、信じられないほど大きいものです。そのために彼らはやつれ果ててしまいます。・・・
 神は祖先たちを地獄から救い出すことはできないのか、また、なぜ彼らの罰は決して終わることがないのかと、彼らはたびたび尋ねます。・・・彼らは親族の不運を嘆かずにはいられません。私も、いとしい人々がそのような嘆きを隠せないのを見て、涙を抑えられないことがあります」
 つまりザビエルは、カトリックの教義に従い「未信者は死の直後に地獄に行っていて、彼らにセカンドチャンス(死後の回心の機会)はない」という理解で伝道していました。しかし彼はそこに大きな矛盾を感じていたのです。
 また米国のある著名な牧師は、「人間は死の直後に天国か地獄へ振り分けられる」という理解を持ち、こう書いています。
「死はすべてのチャンスの終わりです。ヘブル人への手紙9・27には『人間には、一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっている』とあります。つまりいったん死ねば、もはや何のチャンスもないのです。救いは今受け取らなければなりません」
 こういう言い方をする伝道者は、じつは世界にはとても多いのです。日本でも、ヘブル9・27を死後のセカンドチャンス否定の根拠としてあげるかたがいます。
 しかしヘブル9・27の「死後の裁き」について、米国のある伝道者は、
「ヘブル9・27で言われている『死後の裁き』は、死の直後ではなく世の終わりにあるものです」
 と書いています。じつはこちらのほうが、正しい聖書理解です。
 ヘブル9・27でいう「死後の裁き」は、黙示録20章に書かれているように世の終わりにあるからです。「死後の裁き」とは世の終わりの「最後の審判」と呼ばれる裁きのことです。
 それまでは、亡くなられた未信者は地獄ではなく、「よみ」へ行っています。

先祖を気にして当然

 このように「未信者は死後に即、地獄で、救われるチャンスは全くない」という非聖書的理解の人が、残念ながら多くいるというのが実状です。
 このような死後観のところでは、キリスト教は東洋で、また日本で決して広まらないと思います。というのは東洋人や日本人は、先祖を大切にする人々です。
 日本人はキリストの福音を信じたいと思ったとき、いったん立ち止まり、
「待てよ、私の先祖はどうなるのか? おじいちゃんやおばあちゃん、死んだ両親などは天国へ行けるのだろうか」
 と思うのが常です。それにきちんと答えてあげられなければ、信仰の成長は到底望めません。
 以前私は、そういうことを自著「聖書的セカンドチャンス論」に書きました。
 セカンドチャンスとは、死後の回心の機会のことです。ファーストチャンスはこの地上の生、死後の「よみ」がセカンドチャンスです。
 すると日本にいるある宣教師の方が批判本を書かれて、
「日本人が先祖のことを気にするのは、自立心が足りないからだ」
 と述べられました。しかし、自立心の問題ではないだろうと私は思います。
 聖書でも、先祖のことを思い大切にすることが教えられていますし、先祖思いは非常に聖書的な良い伝統です。日本人の多くは、
「先祖や親が地獄へ行っていて、もはや助かる望みはないというなら、私だけが天国へ行くわけにはいかない」
 と思う人々なのです。私はそれは人間として当たり前の心情と思います。
 私はこういう人間の心情に答えられるのは、「未信者は死後地獄ではなく、よみへ行っている」また「よみはセカンドチャンスの場である」というセカンドチャンスの福音のみだろうと思います。
 世間一般では、「セカンドチャンス」という言葉は「やり直しの機会」「敗者復活戦」等の意味で使われています。しかしキリスト教会では、単にこの世でのやり直しの機会というだけでなく、「死後の回心の機会」の意味でも使われるようになりました。
 以前、大川従道牧師(大和カルバリーチャペル)がテレビの礼拝で最初にお使いになった言葉ですが、私も使い、また最近では海外のキリスト者の間でも使われるようになっています。
 私は若い頃じつは、「死後のセカンドチャンスはないだろう」と思っていました。そう教えられてきましたし、またそういうことを口にしてはならないという雰囲気があったからです。
 しかし聖書をよく読んだ結果、未信者が死後にいく「よみ」はセカンドチャンスの場だということを、確信するようになったのです。
 このセカンドチャンス論は、いわゆる「万人救済説」(すべての人は救われる)とは違います。聖書によれば最終的に、信じて救われる人々と、信じないで滅びる人々がいます。
 しかし福音を聞いて信じる機会、救われる機会は、この地上か「よみ」かを問わず、すべての人に与えられなければならない、また与えられるとするものです。
 この地上だけでは、福音を一度も聞く機会がなかった人々が大勢いるからです。
 死後のセカンドチャンスがあるかないかは、これまで大きな論争となってきました。単に日本だけでなく、あとでも述べますが、海外でもディベート(討論)が巻き起こっています。
 セカンドチャンス肯定派の私も、かつて「月刊ハーザー」で半年近くにわたり、否定派と誌上ディベートをしたりしてきました。
 そのほかウェブやセミナー、出版などでも、肯定派と否定派の人々が互いに意見を戦わせています。

異端ではない

 ある人々は、セカンドチャンス論を「異端」と呼びます。自分の見解に合わないものをすぐ「異端」と呼ぶ人々は、残念ながら多くいるのです。
 しかしキリスト教の歴史には、「異端」と呼ばれた人々のほうが、じつは聖書的に正しかったということが幾度もありました。
 かつてはプロテスタントも、景教(東洋に伝道したネストリウス派基督教)も、当時のカトリックから「異端」呼ばわりされたのです。けれども実際には彼らのほうが、当時のカトリックよりも聖書的なキリスト教でした。
 セカンドチャンス論も、そのようなものの一つだと私は思っています。
 かつて「地動説」(地球が太陽のまわりを回っている)を唱えたガリレイは、「天動説」(太陽が地球のまわりを回っている)のカトリック教会によって宗教裁判にかけられ、異端呼ばわりされました。
 ガリレイは無神論者ではなく、聖書を信じる信仰者でした。彼は自分の地動説が聖書に矛盾しないことを説明する手紙を、友人カステリと大公妃クリスティナに宛てて書き送っています。
 ガリレイは異端とされ破門されたとき、「それでも地球は動く」と発言しました。誰が何と言おうと、真理は変わらないからです。
 私にとっても、セカンドチャンスの福音は、天動説から地動説に変わるくらいの、180度の大きな変革でした。しかしそれは聖書の真理をますます身近に、温かいものにしてくれたのです。
 セカンドチャンス論が真理か否かは、○○先生が何と言っているかではなく、聖書とつき合わせながら、ご自身が判断されるのが一番良いと思います。
 もしかするとあなたも、「死後のセカンドチャンスはないんじゃないか?」「あるかないか、はっきりわからないな」「よみは地獄のような所ではないの?」とお思いかもしれません。
 けれども、最後までこれをじっくりお読みくださるなら、よみでのセカンドチャンスは聖書の教えだということが、きっとはっきりおわかりいただけると思います。

混乱の初め

 私は、「よみを地獄と同じものと思う考え」や「人は死の直後に天国か地獄に振り分けられる」という非聖書的理解が、どうしてこんなにも世界に広まってしまったのだろう、とよく疑問に思ったものです。
 じつはこの理解は、4世紀くらいからローマ・カトリックに起こり、そののち、プロテスタントに引き継がれてきたものです。
 それは「使徒信条」をみるとわかります。キリスト者が教会でよく唱えるものです。その中に、
「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり・・・」
 とあり、そこに、
「主は・・・陰府(よみ)にくだり」
 という言葉があります。日本語ではそのように正しい言い方をしていますが、これはたとえば米国などでよく使われているものでは、なんと、
「主は地獄(hell)にくだり」
 となっているのです! 私ははじめこの事実を知ったとき、猛烈なショックを受けました。
 なんというひどい誤解、曲解でしょうか。イエスが十字架の死後、地獄へ行ったと言うとは? よみと地獄では全く意味が違います。
 じつはイエスの死と復活の間のことは、初期の使徒信条には記述がありませんでした。
 たとえば使徒信条の元になった2世紀の「古ローマ信条」には「主は死にて葬られ、三日目に死人のうちよりよみがえり」とあり、「地獄」の語はありませんでした。
 ところが4世紀の「使徒信条ラテン語版」になって、「彼は地獄(ラテン語インフェロス)にくだり」が付け加えられたのです。
 聖書自体は「彼はハデス(よみ)に捨てて置かれず」(使徒の働き2・31)と述べています。イエスが死後に行ったのは「よみ」だ、というのが聖書の教えです。
 ところがローマ人キリスト教徒は、この「よみ」を地獄と同じものと考えてしまいました。それで「よみ」を「地獄」に置き換えたのです。
「使徒信条」はこのように、キリストの使徒が書いたものというわけではなく、後世にまとめられたものです。
 今日のカトリック教会の使徒信条の多くや、米国プロテスタント教会の使徒信条の多くが「主は地獄にくだり」となっているのは、これに由来しています。
 また英国国教会や一部の米国教会などでは、この箇所は「主は死者の所へくだり」と述べられ、「地獄」の語は避けられています。
 日本では、カトリックでもプロテスタントでも、使徒信条は「主はよみにくだり」となっています。これは訳者が聖書に基づいて「よみ」としたからです。日本に昔から「よみ」(黄泉)の観念があったことも幸いしました。
 一方、昔の景教徒たち(ネストリウス派キリスト教徒)は、どうだったでしょうか。
 彼らはもともと東欧から中近東にいた人々で、5世紀にローマ・カトリックと分かれ、東洋に伝道したとき中国で「景教徒」と呼ばれました。彼らも、
「弥師訶(メシア)は、(十字架の死後)闇処(よみ)に向かわれました」(世尊布施論第三)
 と書いています。イエスは地獄ではなく、よみに行かれたという理解です。

イエスは地獄に行っていない

 この「よみ」の観念は、西欧では薄かったのです。そのため「よみ」の語は「地獄」に置き換えられてしまいました。
 よみと地獄の混同は、中世になると欧州でさらに強められました。
 やがて17世紀になると、イギリスで出版された権威あるジェームズ王欽定訳聖書(KJV 1611年)も、イエスは「地獄(hell)に捨てて置かれず」(使徒2・31)と訳し、「ハデス」(よみ)をすべて「地獄」(hell)と訳してしまいました。
 有名なルカ福音書16章の「金持ちとラザロ」の部分も、「金持ちは地獄(hell)で苦しみながら目を上げると」と訳してしまいました[ギリシャ原語はハデス(よみ)です]。
 欽定訳は、その後の聖書翻訳の多くで模範とされ、今も使われています。近年、米国をはじめ世界でベストセラーとなったわかりやすい翻訳「リビング・バイブル」も同様で、「地獄」と訳してしまいました。
 このように欧米のプロテスタント教会の多くや、世界のカトリック教会の多くは「主は地獄にくだった」「あの金持ちも地獄へ行った」という観念の中に、今も生きているのです。
 主イエスも、あの金持ちも、死後に行った場所は地獄ではなく、よみでした。よみと地獄では意味が全く違います。ところが多くの人は、地獄だと思っているのです。
 一つ救いは、これを問題視する人々もいることです。
 たとえば米国テレビ伝道の先駆者レックス・ハンバード牧師は、「イエスが行ったよみは、地獄とは別の場所だ」「金持ちは地獄へ行ったのではなく、よみへ行った」と説きました。
 メシアニック・ジュー(イエスを救い主と信じるユダヤ教徒)も、「主は地獄にくだり」とある使徒信条を、非聖書的として用いません。イエスは「シェオル」(ヘブル語で「よみ」)にくだられたと告白します。
 キリスト教は大きく分けると、カトリック、プロテスタント、東方教会(正教会、東方諸教会)の三大勢力がありますが、東方教会でも「主は地獄にくだり」と述べる使徒信条は用いないのです。そう書いていないニケア信条などを用います。
 このように「主は地獄にくだり」の観念は、カトリックとプロテスタントにのみ広がった誤謬です。
 米国の神学者ウェイン・グルーデム(米国福音主義神学会会長)は、
「主は地獄には下らなかった:使徒信条ではなく聖書に従おう」
 と題する論文を著しています。それを支持する人も多くなってきています。まさに私たちは聖書に従うべきでしょう。
 最近では、「主は地獄にくだり」と告白するのをやめ「主は死者の所に下り」と言い換えるプロテスタント教会も増えてきているそうです。

ペテロの手紙の解釈

 しかしそれでも、混乱は続いています。たとえばペテロの第一の手紙3章18節~4章6節について、いまだに多くの対立する解釈があります。この聖句は、
「キリストも・・・死なれました。・・・キリストは(よみの)捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを宣べられたのです。・・・死んだ人にも福音が宣べ伝えられていたのです」
 というものです。この聖句については、「イエスは十字架死ののち、よみにくだり、福音宣教をされた」と読む解釈と、そうではない別の解釈に分かれています。
 まず、「よみでの福音宣教」とする解釈からですが、たとえば英国グラスゴー大学の神学者ウィリアム・バークレーは、注解書にこう記しています。
「使徒ペテロは、キリストが死人の世界に下っていき、そこで福音を宣教したという驚くべき思想を伝えている。すなわち、死によって裁かれた人でも、なおもう一度福音を受け入れ、神の御霊によって生きる機会があるという意味なのである。・・・
 これは聖書の中で最も素晴らしい文章の一つである。というのは、もしこの説明が真理に近ければ、それが私たちに福音の第二の機会(セカンドチャンス)という、息をのむような光景を垣間みさせてくれるからである」
 米国フラー神学校のジョエル・B・グリーン教授も、注解書にこう記しています。
「第一ペテロ4:6の『死んだ者』は、死後に福音を聞く機会を与えられた人々である。・・・これは初代教会をはじめ初期キリスト者たちの理解でもあった」
 米国デュブク神学校名誉教授ドナルド・G・ブルーシュも、その著『終末の出来事』に、
「福音が死者へ伝えられたのであれば(Iペテロ3:19、4:6)、死後の回心の機会がその後も多くの者に与えられると期待できる」
 と書いています。
 さらに東京神学大学の熊澤義宣・元学長は、説教の中でこう述べました。
「信仰を持たないで亡くなった人、とりわけ自分の親しい人はどうなるのか、という疑問がよく出されます。『愛する家族が救われないとすれば、自分だけが洗礼を受けるのは心苦しい』といった心境から受洗にふみきれない場合もあるでしょう。・・・
 ペテロの第一の手紙3章19節には、キリストが死んだ人のいる世界に下って行かれたと記してあります。・・・その地下とは、よみの世界です。このよみはゲヘナ(地獄)とは違うものとして描かれています。
『獄に捕らわれている霊どものところ』というのは、よみを意味しているのです。キリストが、この死んだ人の所へ下って行かれ、キリストの救いにあずからなかった人の所へ下って行かれたのは、そこで福音を宣べ伝えるためであった、と記されています。
 このことは、キリストを知らないで死んだ人たちにもキリストの恵みが行き渡るためであると、ペテロの手紙は私たちに解説をしてくれているわけです」

否定論者の解釈

 神学者の中には、このようにペテロの聖句を、「キリストによる『よみ』での福音宣教」の意味に解釈する人々が大勢います。キリストは「よみ」にくだり、死者が福音を聞き回心して救われるための機会=セカンドチャンスを、お与えになったという理解です。
 これは彼らだけでなく、じつは初代教会をはじめ初期のキリスト者たちの理解でもありました。
 2~3世紀のヒッポリュトス、テルトゥリアヌス、アレクサンドリアのクレメンス、オリゲネスなどの教父や歴史家は、キリストの「よみ降り」は福音宣教であったとし、死後の回心の機会は初代教会の理解であったと記しています。
 研究家ジェフリー・A・トランバウアーは、その著『初期キリスト教における未信者の死後の救い』において、
「初期キリスト教には、未信者の死後の救いのために祈った多くのキリスト者たちの記録がある」
 とし、多くの実例を述べています。
 私は、このような理解が単に初期キリスト教の時代だけでなく、その後もずっと続いていたらよかったのにと思います。ところが、先ほど述べたように4世紀以降くらいから欧州で、よみを「地獄の別名」のように思う解釈が入りこんだのです。
 イエスは十字架の死後、地獄へ下ったと言われるようになってしまいました。そのため今日、その観念を持っている人々などの間では、ペテロの聖句に関して全く違う解釈が試みられます。
 たとえば、イエスは死後、地獄へくだり、そこで福音ではなく「断罪」の言葉を述べられたという解釈です。しかし聖書には「死んだ人にも福音が宣べ伝えられていた」(Ⅰペテ4・6)と書かれています。
 また「みことばを宣べられた」の「宣べられた(原語ケーリュソー)」は、福音書ではいつも「福音を宣べられた」という箇所で使われている言葉です。それは福音宣教を意味しています。
 一方ある人は、このペテロの句は、イエスの死後のことを言っているのではない、ノアの時代に、ノアの説教の中に霊的にイエスがおられ、のちに大洪水で死んだ人々に語られたことを述べたものだと、かなり苦しい解釈を試みます。
 しかしこのペテロの句の初めに「キリストも・・・死なれました・・・」と書かれています。
 さらに、ある人々はこのペテロの句は、すでに死んでいる人々に福音が語られたという意味ではなく、のちには死んだが、人々がまだ生きているときに福音が語られたことを述べているにすぎない、等と解釈します。
 しかし原語や、原語に忠実に訳された聖書を読めば、「すでに死者となった人々に福音が語られた」としか読めません。
 以上のように反対派の間では、いろいろ解釈が試みられています。どうもこれらは「キリストによる死者への福音宣教」「セカンドチャンスが彼らに与えられた」という解釈を、何とか避けようという努力のようです。
 その根底に「セカンドチャンスを絶対に認めてはならない!」というバイアスがかかっていると感じます。しかし、これらの解釈は正しいのでしょうか。




よみは地獄ではない

よみと地獄の違い

 ペテロの先の聖句を素直に読むなら、イエス・キリストは十字架の死後よみへ下り、死者に福音を宣べ伝えられたとしか読めません。
 キリストは、死後宣教をなし、死者にセカンドチャンス、死後の回心の機会をお与えになったということです。
 今日、東欧やロシア、中近東などに広がったキリスト教は東方教会(正教会、東方諸教会)と呼ばれていますが、東方教会では昔から、十字架の死後イエスが「よみ」へ行って福音宣教をした場面や、イエスが「よみ」の人々を救い出す光景を描いた聖画(イコン)がたくさん使われています。
 それらの聖画は、イエスの復活を祝う復活祭のときの絵として使用されます。イエスがよみで福音宣教をしたというのは、東方教会ではごく当たり前の伝統的理解なのです。
 また東方教会の中でも正教会では、「パニヒダ」と呼ばれる正教徒の死者のための祈りがあり、また正教徒以外の死者のための「異教人のパニヒダ」という祈りの時もあります。
 その際「永遠の記憶」と呼ばれる特別な祈祷が捧げられます。これは神がすべての死者を覚え、恵みと憐れみをお与えになるよういのる祈りです。
 では、イエスがよみへ下り、死者に福音宣教をされたという解釈がなぜ妥当といえるか、その理由をさらにもう少し掘り下げてお話ししたいと思います。
 先ほど、使徒信条は「主はよみにくだり」とすべきで、「主は地獄にくだり」と言ってはいけないと述べました。聖書は、
「彼はよみに捨てて置かれず」(使徒の働き2・31)
 と記しているからです。新改訳聖書(日本聖書刊行会訳)の「あとがき」にも、よみと地獄の違いについて次のように記されています。
「新約聖書でハデス(よみ)、ゲヘナ(地獄)と訳出されているのは、それぞれ、『死者が終末のさばきを待つ間の中間状態で置かれる所』『神の究極のさばきにより、罪人が入れられる苦しみの場所』をさす」
 このように新改訳聖書の訳者の方々は、両者の違いをはっきり認識していました。
 よみ(ギリシャ語ハデス、ヘブル語シェオル)は、旧約時代には、じつは単に悪人だけでなく、神を信じる人々、義人、聖徒たちも死後に行く場所でした。
 たとえばイスラエル民族の父祖ヤコブは、愛する息子ヨセフが死んだとの報を受けたとき、
「私は泣き悲しみながら、よみにいるわが子の所に下っていきたい」(創世記37・35)
 と言いました。ヨセフは熱心な神の信者です。その子は死んで今「よみ」にいるとヤコブは思いました。
 旧約時代に「よみ」は、神を信じる信者もみな死後に行く場所だったのです。ダビデは「私の命はよみに近づきます」(詩篇88・3)といい、ソロモンは「あなたが行こうとしているよみには・・・」(伝道9・10)と言いました。
「いったい、生きていて死を見ない者は誰でしょう。だれがおのれ自身を、よみの力から救い出せましょう」(詩篇89・48)
 とも述べられています。旧約時代に「よみ」は、すべての死者の行き先でした。
 アダムも、ノアも、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、またダビデや、イザヤ、エレミヤなどの預言者も、みな死後は「よみ」へ行ったのです。
 よみの内部は幾つかの場所に分かれ、彼らは、よみの「慰めの場所」と呼ばれる義人たちのための場所に行ったのです。これはキリストの十字架の贖いの前の時代だったからです。
 これだけをみても、よみは地獄とは異なることが明らかです。

旧約の聖徒たちは今は天国

 イエスが語られた「金持ちとラザロ」(ルカ16章)の話には、よみの中の二つの場所が出てきます。一つは、アブラハムやラザロのいた「よみの慰めの場所」と呼ばれる所です。もう一つは、金持ちのいた「よみの苦しみの場所」です。
 世界的伝道者だったビリー・グラハムは、セカンドチャンスの考えには至らなかったようですが、金持ちがいたのは地獄ではなく、「よみの中の場所の一つ」だと述べています。
 また古代にエノク書という、聖書には入っていませんが新約聖書ユダ書に一部引用のある古代ユダヤ文書があります。
 その書には、よみには4つの場所があり、一つは神を信じる信者や義人のための場所、残りの三つは、それ以外の死者のための場所だと書かれています。いずれにしても、よみはすべての人の死後の行き先だったのです。
 この「よみ」は地獄ではありません。それは旧約の義人たちも行った場所だからです。またこの「よみ」は天国でもありません。それは「下」にあるものとされているからです。
 しかし旧約の聖徒たちは、今は「よみ」にいません。彼らはイエス・キリストの昇天の際に、イエスと共に天に上げられたからです。
「高い所に上られたとき、彼(キリスト)は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた」(エペ4・8)
 と聖書に述べられています。この「捕虜」とは、先ほどのペテロの聖句でも出てきた「よみ」の「捕らわれの霊たち」のことです。
 イエス昇天の際に、弟子たちの肉眼にはイエスおひとりが上げられていくように見えましたが、霊的には多くの「よみ」にいた「捕らわれの霊たち」を、イエスは引き連れて天にのぼられたというのです。
 このようにイエス昇天の際、旧約の聖徒たちは天に上げられたので、今は天国にいます。これはすでに十字架の贖いがなされたからです。
 そののちキリスト者となった人々は、「よみ」へ行くことなく、死後は直接天国に上げられています。

よみは裁判前の留置場

 一方、未信者は死後「よみ」へ行っています。よみには幾つかの場所があり、生前の生き方や行いに応じた慰めや懲らしめをそこで受け、自分の人生を振り返るのです。
 よみは暗く、広く、深く、死者のけがれに満ちた所だと聖書に述べられていますが、地獄とは別のものです。
「金持ちとラザロ」の話の中の金持ちは、そのよみの中でも最も苦しみの多い「よみの苦しみの場所」に行きました。
 金持ちは懲らしめの炎の中で苦しみながらも、なお生前の自分の人生を思い起こしたり、後悔したり、地上の兄弟のことを心配したり、また淵をはさんだ「よみの慰めの場所」にいるアブラハムと会話したりしています。
 苦しいとはいえ、正常な精神活動や会話ができているのです。
 その一方、地獄はさらなる苦しみの炎に包まれる場所で、もはやそのような正常な精神活動も、会話もできない所です。
 つまり、よみは、いわば裁判前の留置場のような所なのです。一方、地獄は、裁判で刑が確定したのちの刑務所のような所です。
 よみは、最後の審判と呼ばれる神の裁判の法廷の時までの一時的な場所です。一方、地獄はその神の裁判の法廷で有罪となった者が最終的に収容される場所です。
 黙示録に、世の終わりに最後の審判という裁判が開かれ、そのとき「よみ」の死者はすべて神の法廷に出されると書かれています。そしてその裁判が終わると、
「死も、よみも、火の池(地獄)に投げ込まれた」(黙示20・14)
 と述べられています。つまり世の終わりに、空になった「よみ」は地獄に捨てられるのです!
 よみが地獄に捨てられるのであれば、よみはどうして地獄と同じでしょうか? よみと地獄が別物であることは、このように聖書をよく読めば全く明らかなことです。

3つの誤った観念

 ところが、聖書がこんなにはっきり言っているにもかかわらず、中世以降、教会の堕落時代に、「よみ」と「地獄」の混同はますますひどくなりました。未信者は死の直後に地獄だ、という間違った観念が一般常識となってしまったのです。
 中世は、ほとんどのキリスト教徒は聖書を読まなかったこともあるでしょう。一般庶民は文盲でしたから、読めなかったということもあるでしょう。
 聖職者たちも、ラテン語以外で聖書を読むことを禁じましたから、よみを地獄と訳したラテン語を読むだけの人が多かったのです。
 やがて1611年には、英欽定訳聖書も「よみ」を「地獄」と訳してしまう有り様となりました。
 この「よみを地獄と同一視する」理解は、次の3つの誤った観念をキリスト教界にもたらしました。
1 人の死後は天国か地獄のみである。
2 人は死の直後に天国か地獄へ振り分けられる。
3 キリスト者は死後、天国へ行くが、未信者は死の直後に地獄へ行く。だから地獄へ行った未信者にもはやセカンドチャンスはない。
 このように、未信者は死の直後に地獄に行っているとか、セカンドチャンスはないという先入観等は、元はといえば皆、よみと地獄の混同が原因だったのです。
 さらに、英欽定訳聖書が生まれてから数十年後、イギリスでウェストミンスター信仰告白(1646年)というものが作られています。
 これは今も、幾つかのプロテスタント教派の土台になっている信仰告白です。その中に、
「義人の霊魂は・・・天に受け入れられる。・・・悪人の霊魂は地獄に投げ込まれ、大いなるさばきまで閉じ込められ、そこで苦悩と徹底的暗黒のうちにあり続ける。聖書は、からだを離れた霊魂に対して、これらの二つの場所以外には何も認めていない」
 という記述があります。よみが完全に抜け落ちてしまったのです。人の死後は天国と地獄しかない、その二つだけだと書かれています。
 このウェストミンスター信仰告白を理由に、日本のある牧師は以前セカンドチャンス論反対のセミナーを開き、「セカンドチャンスはないのだ」と講演しました。天国と地獄しかないのだから、死んだ未信者にセカンドチャンスはないという論法です。
 しかし聖書ははっきりと、天国と地獄以外に「よみ」がありますよ、と言っているのです。未信者は地獄ではなく「よみ」へ行く、「よみ」は一時的な場所で、世の終わりに空になってから地獄に捨てられるものですよ、と聖書は述べています。
 また韓国で巨大教会をつくった牧師は、あるとき信者から、
「立派な人だったけれどもイエスの福音を聞いた事がなく、救いを知らずに死んでしまった人は、救われるのでしょうか?」
 と聞かれました。その牧師は「人の死後は天国か地獄だけだ」という米国神学を学んだかたなので、彼はその観念のもと、
「イエス様を信じなかった人は救われません」
 と答えるのみでした。死んだ未信者にはもはや何のチャンスもない、という理解です。
 確かにそのような理解でも、韓国では信者が増えたのかもしれません。しかし日本では、そのような伝道では無理だろうと思います。聖書的には、人間の死後は三つあるからです。
1 キリスト者の行く「天国」
2 未信者の行く「よみ」
3 世の終わり以降に不信者が最終的に行く「地獄」
 の三つです。
 ですから、人間の死後は天国と地獄の二つだけだという「ウェストミンスター信仰告白」や、それに類する信条は、「明らかに聖書的でない」と考える神学者も多くいます。
 ところが、こうした誤った死後理解が、今も多くのところで使われているという悲しむべき現状があるのです。
 先に述べたように神学者ウェイン・グルーデムは、
「主は地獄には下らなかった:使徒信条ではなく聖書に従おう」
 と題する論文を著しました。同様に私たちは、
「未信者は死後地獄ではなく『よみ』へ行く:ウェストミンスター信仰告白ではなく聖書に従おう」
 と言うべきところでしょう。

よみはセカンドチャンスの場

 大川従道牧師(大和カルバリーチャペル)も、その著「永遠と復活」(幻冬舎)の中に、とりわけ自殺者の死後についてこう書いています。
「キリスト教界は、自殺者を罪人として、地獄へ行く者として断罪してきました。・・・しかし、彼らは地獄へなど行っていません。・・・よみへ行っているのです。・・・イエス・キリストはその『よみ』にまで行って最後の最後まで福音を伝えられたのです」
 実際その通りです。
 かつてカトリックが腐敗したとき、宗教改革が起きてプロテスタントができましたが、現代でももう一度、宗教改革が必要のようです。
 あるいは私たちは、未信者は地獄だという西洋キリスト教とはお別れして、独自に聖書的キリスト教を追求していくべきなのでしょう。
 ただし最近では西洋の神学者の中にも、その欠陥を改めようという意見が出され、「よみは地獄とは別です」と述べる人も増えてはいます。しかしその混同は、いまだに人々の間に根強くあります。
 私はこれまでセカンドチャンス反対派と、何度もディベートを重ねてきました。そのたびに感じたことは、西洋神学のバックグラウンドを強く持っている人ほど、セカンドチャンスを強く否定してくるということでした。
 しかしセカンドチャンスを否定する前に、まずは、未信者は地獄ではなく「よみ」へ行っているということ、また「よみ」はなぜあるのか、をよく考えて頂きたいと思います。
 たしかに日本では西洋とは違い、「未信者が死後行くのは地獄ではなく、よみである」という理解のキリスト者も多くいます。しかしそういうかたでも、よみが何のためにあるのかについて、明確な理解がないことが多いと感じます。
 よみには明確な存在意義があります。
 もし未信者が、「よみ」のあとに結局全員、地獄に行くと決まっているのであれば、よみは全く不必要です。「よみ」など無しにして、死の直後に地獄でいいことになりますから。
 しかし、未信者は死の直後に地獄へは行かず、よみへ行きます。それはいったん「よみ」に行き、自分のかつての人生を振り返る時を与えられる必要があるからなのです。
 よみに行った人は、やがて全員が世の終わりの最後の審判のあとに、地獄へ行くわけではありません。ある者たちは義と認められ、そのあと神の国(天国)へ行きます。
 つまり「よみ」はセカンドチャンスの場所としてあるのです。

セカンドチャンスの聖句

 セカンドチャンスの聖書的根拠について、お話ししましょう。
 未信者として亡くなられた人々はみな、世の終わりに開かれる神の裁判の法廷の時まで、「よみ」の中のそれぞれの場所に留め置かれています。
 ある者はそこで慰めを、ある者は懲らしめを受けながら、かつての地上での自分の人生を振り返る時を与えられます。
「よみ」にくだった人々には、あの「金持ちとラザロ」(ルカ16章)の話にみられるように、かつて地上にいたときの自分の記憶があります。金持ちは、地上の兄弟のことを思い起こし、心配しています。
 つまり、よみに行った人々の魂には、かつての地上の人生の記憶があるのです。
 彼らの中には、地上の人生でキリストの福音を聞いたが信じなかった、という人々もいるでしょう。しかし彼らは、その福音を「よみ」で思い起こします。
 それが彼らにとってセカンドチャンスになります。彼らの中には福音を信じ、キリストを「救い主」「主」として受け入れる人々もいることでしょう。
 さらに、その福音を「よみ」の他者に語る人々もいるでしょう。他者の中には、かつての自分の人生で、福音を一度も聞いたことのない人々もいます。
 彼らも「よみ」で、福音を聞いて信じるチャンスを得るのです。実際、聖書はこう述べています。
「もしあなたの口で『イエスを主』と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる。・・・
 キリストは、死んだ人にとっても(よみにいる人々)、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです」(ローマ人への手紙10:9、14:9)
 非常に明確な聖句です。誰でも、イエスを「主」、つまり「私がお従いしていくおかた」と信じて告白するなら救われる、と述べられています。
 そしてイエスの十字架の死と復活は、死者と生者の「主」となるためであったと、書かれています。わざわざ死者を先に書いて、死者と生者の「主」となるためであったと。
 つまり死者も、イエスを「主」と信じて告白するなら救われます。
 東京神学大学の加藤常昭教授は、かつてこの聖句をもとに、よみの死者も福音を信じ「主」と告白するなら救われる、という説教をされています。「聖書はこんなにもはっきり言っているではないか」と。
 さらに聖書は、
「「それ(イエスの十字架死、復活、昇天)はイエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもの(よみの人々)のすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです」(ピリピ人への手紙2:10-11)
 とも述べています。「地の下にあるもの」とは、よみの人々のことです。彼らも救われるために、イエスの十字架死、復活、昇天があったと明確に述べられています。
 他の解釈はできないでしょう。聖書はこんなにはっきり述べているのです。それなのに、一体どうしてセカンドチャンスの福音を信じないのでしょうか? 何かが目くらましとなっているのです。




セカンドチャンス否定派との議論

セカンドチャンスは不都合か

 その目くらましの例をお話ししましょう。多くの反対派は、
「セカンドチャンスを教えたら、人々は地上では好き勝手に暮らして『死んでから回心したらいいだろう』と思ってしまうだろう。それは不都合だ」
 とよく言います。
 しかし、キリストの福音とはそんなものでしょうか。福音は単に死後の天国のためにあるだけでなく、この地上の人生のためにもあるものです。
 もし私たちが、この地上で神の子となって生きる祝福と恵み、素晴らしさを知り、それをしっかり人々に伝えるなら、「死んでから回心すればいい」などとは誰も思わないでしょう。だれもが、この地上を豊かに幸せに生きたいのですから。
 たとえばある女性がある男性を好きになり、結婚したいと思ったとき「死んでから結婚すればいい」などと思うでしょうか? イエスを信じるとはイエスと共に生きることであり、二人三脚の結婚生活にも似ています。
 イエスを大好きになったら、すぐにでもイエスと共に生きていきたいと思うものです。「死んでからイエスを信じればいい」などとは思いません。本当の豊かな人生は、
「わたしが来たのは、羊(人間)がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(ヨハ1・16)
 と言われたイエス・キリストを信じて共に歩んでいくことにあるのです。
 また聖書は、この地上で信仰を持つなら、その祝福は信者だけにとどまらず、信者の家系にまで豊かに臨むと約束しています。
「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(出エ20・6)
 この「千代」は、単に子孫だけでなく先祖も含まれています。なぜなら多くの人にとって、世の終わりまで千代はないでしょう。
 また聖書では、先祖→自分→子孫は、つねに一セットなのです。先祖なしの自分も、先祖なしの子孫もありません。
 聖書は、神の恵みは信者とその家系、先祖から子孫に至る一千世代にまで及ぶ、と述べているのです。この家系的祝福の福音が語られるなら、たとえば、
「私の先祖はどうなるのか? 私だけが天国へ行くことはできない」
 と思ってためらっている人々も、信じやすくなるでしょう。
 もちろんこの地上で、ある人が信者になったからといって、それで自動的にその人の先祖や子孫のすべてが救われるということではありません。
 しかし一人の人が救われるなら、その人への祝福はその人だけでなく、あふれ出て、その先祖や家族、子孫にまで豊かに臨んでいくのです。こうしてひとりの人の救いは、先祖や家族、子孫の多くを救いに導くでしょう。
 一方、セカンドチャンス反対派の人はよく、
「もしセカンドチャンスがあるというなら、必死に伝道する熱意がなくなる」
 とも言います。けれども、伝道とはそんなものでしょうか。大塚信頼牧師(町田カルバリー家の教会)はブログに、こういうことを書いています。
「私はあるとき(セカンドチャンス肯定派の)牧師に、
『セカンドチャンスを信じると、殉教したり、バカにされても福音を伝えることがばかばかしくなって、セカンドチャンスがあるんだから伝道しなくてもいい、むしろ下手な伝道はしない方がいいと思ってしまうのではないでしょうか。
 つまりセカンドチャンスは、伝道しないことの逃げになるのではないですか?』
 と尋ねさせていただいた。その答えはこうだった
『そういう発想をする人が多いが、そんなこと全く考えられないし、考えたこともない。
 聖書は、福音を伝えるように命令しているし、血の責任をあなたに問うといっている。恵みを受けた者が、その恵みを他の人に伝えるのは当然の責任だ。
 再臨のとき、福音を伝えたかどうか、賜物を用いたかどうか神の前に問われるわけだから、そんなことはない』
『なるほど。ということはセカンドチャンスを信じても、伝道の責任や使命というものは全く変わらなくあるわけだから、伝道の情熱や責任感や使命感は全く失われることはない、それらは両立するということなのですね』
『その通り。私を見ていただければ分かると思うが、私は今でも命がけで伝道している。どうしたらすべての人に福音を届けられるかいつも考えている』
 目からウロコ。私にとっては大・大発見だった!」

金持ちとラザロの話の意味

 また反対派は、よくセカンドチャンス否定の根拠として、「金持ちとラザロ」(ルカ16章)の話をあげます。この話は、セカンドチャンスの根拠でもあるのですが、否定派は否定の根拠としてあげます。
 話の中で、利己的な生き方をしていた金持ちは、死んで「よみの苦しみの場所」に行きました。彼は自分のかつての生き方を後悔し、淵の向こうにいるアブラハムに願いました。アブラハムのそばには、かつて金持ちの家にいた貧乏人ラザロもいました。
 金持ちはアブラハムに、今も地上で利己的生活をしている兄弟たちのところにラザロを送り、こんな苦しみの場所に来なくてもいいように彼らを諭して下さい、と願いました。
 しかしその願いは結局かなえられませんでした。アブラハムの立場では、
「彼らには、モーセと預言者(つまり聖書)があります。その言うことを聞くべきです」
 と言えるだけだったからです。「このように金持ちの願いはかなえられなかったではないか。だからセカンドチャンスはないのだ」と反対派は言います。
 たとえば米国の音楽グループ=ホワイト・クロスの「セカンドチャンスはない」という歌の歌詞に、こうあります。
「金持ちは死んで地獄(hell)の責め苦に置かれた。・・・彼はそこで、もう一度いいことをしたいと思った。一つだけでいい。地上の兄弟を助けたいと思ったのだ。しかしそれはかなわず、セカンドチャンスはなかった」
 また日本でテレビ伝道を繰り広げたある牧師は、視聴者からセカンドチャンスについて質問を受けたとき、こう答えています。
「死んでからなら誰でも神様を信じられそうですが、聖書にはなんと『死んでも信じなかった人』の実例も書かれています。・・・
 この金持ちは、よみで大いに苦しんでいますが、悔い改めようとはせず、アブラハムに向かって、ラザロを自分の家族に送って欲しいと懇願するのみです。・・・この話から分かるのは、人の心は死んだだけでは変わらないということです」
 しかし「金持ちとラザロ」の話は、そのようなことを言っているのでしょうか?
 まず、ホワイト・クロスは「金持ちは死んで地獄に」行ったと述べていますが、先ほど述べたように実際にはそれは地獄ではなく、「よみ」(原語ハデス)での話です。
 金持ちは「よみの苦しみの場所」、アブラハムとラザロは「よみの慰めの場所」にいたのです。旧約時代に、すべての人は死後「よみ」に行ったからです。
 また「アブラハム」「ラザロ」と実名があげられていますから、これは「たとえ話」ではなく、実話です。イエスが実名をあげられたとき、それはいつも実話でした。
 これは旧約時代の実話なのです。イエスがそれを語られたのは、それがとても印象的な出来事だったからです。そして私たちに死後界の真実を教えるためでした。
 その真実とは第一に、よみに行った人間には、そこがたとえ「よみの苦しみの場所」であっても、金持ちが示したように、かつての自分の人生を後悔することがあるということです。
 テレビ伝道の牧師は、金持ちは「悔い改めようとはせず」と述べていますが、私は金持ちは悔い改めたからこそ、このような願いを言ったのだと思います。
 なぜなら、金持ちはラザロを地上の兄弟たちの所に送って、彼らを諭すようにしてくださいと願いました。しかし、たとえその願いがかなえられたとしても、金持ちには何の得もありません。純粋に兄弟たちのことを心配して、彼はそう願ったのです。
 これは愛です。金持ちは悔い改めたからこそ、そのような愛を示すことができたのです。よみでは悔改めも、愛も、人の心に起きることがあるのです。これはセカンドチャンスということです。

心の貧しさを認めることが救いに

 この「よみ」で金持ちが示した心は、じつはイエスがとても愛した心でもあります。
 たとえばかつてイエスが語られた話に、「パリサイ人と取税人」の話があります(ルカ18・10~14)。パリサイ人は、自分はこんなに正しい良い人間であることを感謝します、ことに、そばにいる取税人のような罪人ではないことを感謝しますと、神様に祈りました。
 一方、取税人は遠く離れて立ち、自分の胸をたたきながら、「神様、こんな罪人の私をあわれんでください」と祈りました。イエスは、「義と認められて家に帰ったのはこの取税人のほうです」と語られています。
 金持ちの心は、この取税人と同様、罪を嘆き、へりくだったものだったのです。イエスは、
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタ5・3)
 と語られています。金持ちも取税人も、その「心の貧しさ」を自ら認めた人々であるゆえに、「天の御国」を与えられるのです。
 金持ちは「よみの苦しみの場所」で苦しみましたが、そこは彼の最終的な場所ではありません。金持ちは、懲らしめの炎の中で苦しんだものの、彼は後悔することも、愛を示すことも、正常な精神活動もすることもできました。
 よみの苦しみの場所の炎は、地獄と呼ばれる「火の池」の苦しみの炎に比べれば、はるかに軽いからです。地獄ではその苦しみははるかに強く、もはや話すことも、会話することも、正常な精神活動をすることもできないでしょう。
 しかし、よみの苦しみの場所の苦しみは「懲らしめ的苦しみ」に抑えられているのです。
 やがて世の終わりに、最後の審判と呼ばれる神の裁判の法廷が開かれます。その法廷に、よみにいるすべての魂が出され、人々の最終的な行き先――神の国(天国)か地獄かが言い渡されます。
 そのとき、あの金持ちと同様「よみ」で後悔や、悔い改めを示したり、愛を示したりしたすべての人は、最終的行き先を決定する際の考慮事項に入れられることでしょう。
 よみはセカンドチャンスの場なのです。
 金持ちはよみでアブラハムに願いましたが、アブラハムの立場では、確かに、その願いをかなえてあげることはできませんでした。
 アブラハムは人間にすぎませんから、ラザロを死人の中からよみがえらせるとかはできません。願いをかなえてあげられないのは当然です。しかし国府田祐人牧師(荒川教会)はこう語っています。
「そこにいたのがもしアブラハムではなく、イエスであったならばどうか、イエスがいないならばセカンドチャンスはないかもしれないが、イエスがいるならば話はまた別になってくる。私は、セカンドチャンスがあるということを、聖書は物語っていると思う」
 そうです。イエスであるならばまた違っていたでしょう。
 金持ちはよみで、たとえかなえられても自分には何の得もないことを願い、兄弟たちへの愛を示しました。それは天から「よみ」の光景を見ていたイエスに、深い感動を与えたに違いありません。だからこそイエスは、この話をなさったのです。
 イエスは心を見られるかたです。そのように「よみ」に行ってから真人間に立ち返った金持ちを、イエスが天国に導かれるのだとしても、何の不思議もありません。
「金持ちとラザロ」の話は、よみがセカンドチャンスの場だということを物語っているのです。
 この話は、旧約時代の実話ですから、そこにはキリストの福音の話はまだ出てきません。「モーセと預言者」つまり旧約聖書の話しか出てきていません。旧約時代は、よみはすべての死者の行き先でした。
 そののち、キリストの十字架死と、よみ降り、よみでの福音宣教、キリストの復活と昇天がありました。そして先に述べましたようにキリスト昇天の際に、旧約時代の聖徒たちは天国に引き上げられました(エペ4・8)。
 キリストがよみ降りをし、よみで福音宣教をなさったとき、この金持ちも、よみで福音を聞いたことでしょう。彼はキリストを信じ、回心し、救われ、キリスト昇天の際にはアブラハムやラザロ、他の聖徒たちと共に天国にあげられたことでしょう。

死後宣教論
 
 キリスト昇天後は、キリスト者は死後、天国へ行き、未信者として死んだかたは死後よみへ行っています。
 この新約時代においては、地上で福音を聞いたものの信じないで未信者として「よみ」に行った、という人々もいます。彼らは「よみ」で福音を思い起こし、そこで福音を信じることもあるでしょう。
 そして信じた福音を、「よみ」の他者に語ることもあるでしょう。こうやって福音は「よみ」で宣教されていくのです。ですから台湾の蔡澄振牧師はこう語っていました。
「福音は、人々が信じようと信じまいと、やかましいくらい語りなさいと私はよく信徒に言っています。この地上で信じれば一番良いです。しかし信じなかったとしても、よみで、あの金持ちが地上のことを思い起こしたように、思い起こしますから。よみで信じることもできるのです」
 このように、よみで福音が信じられたり、語られたりすることを「死後宣教」(postmortem evangelism)といいます。
 海外では、ドナルド・G・ブルーシュ(米国デュブク神学校名誉教授)、ガブリエル・ファカー(米国アンドーバーニュートン神学校名誉教授)などが、死後宣教論を説いています。
 ファカー教授は、神の「聖なる忍耐強さ」(Ⅱペテロ3:9)により、福音を聞くことなく死んだ人にも、死後に回心の機会が与えられると述べました。
 神学者ジェイムズ・ベイルビー(米国ベテル大学教授)も、その著「死後の機会」にこう述べています。
「愛の神は、救いへ達する道がすべての人の手の届く所にあることを望んでおられる。その救いへの道は、キリストの福音を聞き信じることだが、聞く機会もなく死んでいった人が世界に大勢いる。そうした人々は死後の回心の機会を得るのである」
 なぜこのように、死後にも宣教がなされる必要があるかといえば、世界には福音を一度も聞くことなく世を去った人々が大勢いるからです。イエスは昇天の際に弟子達に、
「全世界に出て行って、すべての造られた者に福音を宣べ伝えよ」
 と言われました。そう言われたイエスが、福音を一度も聞くことなく世を去った人々に無関心であることは、到底考えられません。
 福音は「すべての造られた者に」、つまりこの地上に生きたことのあるすべての人に、宣べ伝えられなければなりません。世の終末はそのあとに来ます。
 ですから、地上で福音を聞くチャンスがなかった人には、よみでそのチャンスが与えられなければならないし、与えられるのです。
 イエスが十字架死ののち、よみで福音宣教をなさったのも、その一環でした。しかし、イエスがそのとき福音宣教をなさった相手は、それ以前の人々だけでした。
 その後の「よみ」の死者に対してはおもに、地上で福音を聞いたが信じないで「よみ」に行き、そこで福音を思い起こして信じた人々によって、福音宣教がなされるのです。
 さらに黙示録を見ますと、終末の患難時代に二人の神の預言者がエルサレムに現れると、預言されています。彼らはそのとき、力を持っている暴君「獣」に殺されます。しかし3日半ののちによみがえり、人々の見ている中を昇天します(黙示11・3~12)。
 この二人の預言者は、復活後に天国に行きますから、3日半の死の際には「よみ」に下るでしょう。そしてかつてイエスがなさったように、彼らは「よみ」で福音宣教をなすでしょう。
 こうして世の終わりが来るときまでに、すべての造られた者に、つまり地上に生きたことのあるすべての人々に、福音が宣べ伝えられるのです。
 ですから黙示録にこう記されています。
「私(ヨハネ)は、天と地と、地の下(よみ)と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。『御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように』」(黙示5・13)
 つまり、よみの中からも神への讃美の声があがるといいます。彼らは、よみで与えられた死後宣教、セカンドチャンスに応答し、神を信じるに至った人々です。
 ここに「あらゆる造られたもの」と書かれていますが、「あらゆる」「すべての」等と訳された言葉は、必ずしも一つ残らずの意味ではなく、「非常に多くの」の意味です(マタ10・22)。
 セカンドチャンス反対派のある人は、この讃美をしているのは救われた魂ではなく、滅びゆく人々や悪霊が、神の義を示すために讃美しながら地獄へ落ちていくのだと解釈したりします。
 しかしそれは間違いです。なぜなら聖書に、地獄行きの人間や悪霊が神を讃美している箇所は、一箇所もありません。また、
「すべての神のしもべたちよ・・・神を讃美せよ」(黙示19・5)
 と述べられ、讃美に呼び出されているのは「神のしもべたち」=救われた魂なのです。よみの中からも、救われた魂が神への讃美の声をあげるのです。

与えられる永遠の命

 そうやって「よみ」で死後宣教を受け、セカンドチャンスを生かして神と救い主を信じた人々は、やがて世の終末に最後の審判の際に、神の国(天国)と永遠の命を与えられます。
 イエスは言われました。
「死人が神の子(イエス)の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。・・・墓の中にいる者(よみの人々)がみな、子(イエス)の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです」(ヨハ5・25-29)
 イエスはここで、「死人」がイエスの声を聞く時が来て、聞く者は「生きる」と言われています。イエスが「生きる」と言われるとき、それは永遠の命に生きることを意味します。
 セカンドチャンス否定派は、この「死人」は単に霊的に死んでいる人々、罪の中に死んでいる人々の意味だといいます。
 しかしイエスは、「死人」の意味をはっきりさせるため、その数節あとで「墓の中にいる者が」と述べ、それが肉体的にも死んで「よみ」に下った人々の意味だと言われています。
 つまり、よみの中にいる死者も、イエスの声を聞き、福音を信じて回心するなら「生きる」、つまり永遠の命を得ることができるのです。
 実際、黙示録にこう記されています。
「私(ヨハネ)、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。・・・別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。・・・
 死もハデス(よみ)も、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた」(黙示20・12~15)
 これは世の終わりの最後の審判の法廷に関する預言です。「よみ」の人々はみな「よみ」から出され、その法廷に立つのです。
 その法廷に「いのちの書」が提出されます。「いのちの書」に名の記されていない者はみな「火の池」(地獄)に投げ込まれたと記されています。
 そこに名があれば神の国(天国)だが、名がなければ地獄ということですから、「いのちの書」とは回心者名簿です。もし「よみ」にいた魂の全員が地獄行きなら、この法廷に「いのちの書」は不要です。しかしそこにその回心者名簿が出されています。
 それは「よみ」の魂の中には、回心して救い主を信じるようになった人々が少なからずいるということなのです。

セカンドチャンスの討論

 このように死後のセカンドチャンスを示す聖句は、数多くあります。
 ところが、もしそれでもセカンドチャンスを否定するならば、その人はどこかで目くらましを受けているのです。
 私も以前は「セカンドチャンスはないだろう」と思い、「セカンドチャンスは口にしてはならないものだ」と思っていた人間ですので、その目くらましがよくわかります。
 人間は一度「セカンドチャンスはない」という教えの中で育つと、どうしてもその先入観からなかなか抜けられません。
「もしそんなことを言ったら周囲から反対される」という気持ちが強く働き、セカンドチャンスの根拠聖句も、そうでない解釈に何とか持ち込もうとするのです。
 しかしいま世界を見渡せば、セカンドチャンスがあるかないかに関して、広くディベート(討論)がなされるようになっています。
 ディベートというのは、感情的に相手を異端呼ばわりして蹴落とすような議論ではなく、冷静に理解や主張を出し合って、互いに真実は何かを追い求めようとするものです。
 たとえば、神学者ロナルド・ナーシュ、ガブリエル・ファカー、ジョン・サンダースは、そういうディベート本を出版しています。『聞いたことのない人はどうなの?』という本ですが、1996年の雑誌「クリスティアニティ・トゥデイ」のブックス・オブ・ザ・イヤーに選ばれました。
 ナーシュは、この地上の人生でのみ回心の機会があるとしましたが、ファカーは、神の「聖なる忍耐強さ」(第二ペテロ3:9)により、福音を聞くことなく死んだ人にも、死後に回心の機会が与えられると主張しました。
 サンダースは、救いはイエス・キリストによってのみ与えられるが、キリストを知らずに死んだ人にも救いが与えられる場合があるとしました。
 私の「聖書的セカンドチャンス論」も、英語版のウェブサイトはそののち無償ボランティアの手により9か国以上の言語に翻訳されました。向こうから「訳したい」と言ってきてくださったのです。
 ヴァレリー・クゼフ(ウクライナ・プリャゾフスキー州立工科大学教員)も、こう書いています。
「(福音を聞くこともないまま死んだ人をそのまま地獄へ落とすという)地獄観は、神の義に反する。私はセカンドチャンス論を支持する」
 セカンドチャンスの福音は、「セカンドチャンスがあるなら、死後に回心すれば良い」という考えに人々を向けるものではありません。
 伝道の熱意を奪うものでもありません。むしろ、セカンドチャンスの福音を知ることで、
「私の先祖や家族の中には、イエスを知らずに死んだ人々もいるが、彼らにも希望がある。もし私が地上でイエスを信じて歩むなら、その祝福は私だけではなく、彼らにも及ぶだろう。私は彼らのことはイエスにおゆだねして、イエスと共にこの人生を歩んでいけば、それでいいのだ」
 という気持ちにさせるものです。
 死後にもセカンドチャンスはあります。ただし、たとえ「よみ」で福音を信じて回心したとしても、それですぐ天国へ移行できるわけではありません。
 信じてもなお、世の終わりの最後の審判の法廷まで、よみに留め置かれます。最後の審判の法廷に立つ時まで、よみから出ることはできません。
 それは多くの人々にとっては、かつての地上の人生よりも長い期間になります。だからこそ私たちは、もし地上の人生でキリストの福音を聞いたなら、生きている間に信じたほうが、はるかに良いのです。聖書は、
「あなたの若き日にあなたの造り主を覚えよ」
 と言っています。生きているときに神の祝福を受けた歩みをし、恵みに導かれた人生を進んで行くことは、何と幸いなことでしょうか。神はあなたの人生の前に、
「もろもろの善を通らせる」(出エ33・19)
 と言われました。神の祝福と善を受けて歩む人生にまさるものはありません。
 あなたに、福音を信じて救われるファーストチャンス=この世の人生があるなら、そのときに信じるのが一番です。しかしファーストチャンスで福音を信じる機会がなかった人々のために、セカンドチャンスがあります。

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久保先生へ、セカンドチャンス論について

久保先生

聖書と日本フォーラムでご一緒させていただいた、中山です。先ほど投稿しましたが個人名は削除してくださいとのことなのでご承知ください。

セカンドチャンス論。以前のUTUBEで拝見し、これしかないと思っておりましたが、東京聖書学校では、教授陣が殆ど皆これを取らず、それもあってか、私は3年前に退学へと追い込まれました。これでは牧師の方々がセカンドチャンスと取らない考えを刷り込まれ縛られてしまうのは当然です。セカンドチャンスを認めなければ、先祖を大事にする日本文化の中での宣教、リバイバルはできません。私の好きなある女牧師先生もセカンドチャンス論を取りません。路傍伝道でも「信じれば天国、信じなければ地獄」と掲げていますが、人に追っかけまわされたこともあったと。路傍伝道はまず今の時代実際の効果がなく苦しんでいる状況ですね。でもその人は、それを「迫害」と捉え、喜び踊っています。なにか、違うのではと思います、一方、新居浜教会の女性牧師は久保先生を尊敬しており、久保先生の本で、受洗前指導をして、年に何人も受洗させています。景教、日本と聖書フォーラムに大変関心があり、次回参加したい、いつどこでですか、と聞いてきています(わかれば、教えてください)。子ども食堂に参加する95%はノンクリスチャン、創価学会、立正佼成会、神道、他の仏教その他。人権・同和教育での講演会でも愛媛県県民文化会館
で3000人ホールで語り、全国大会に選ばれています。その他AAミーティング。各種カウンセリング。とにかくノンクリスチャンを含む土壌で伝道しらければいけないと思います。LGBTについても同じ。キリスト新聞社社長も立場上言えませんがかなりリベラルです。私はキリスト新聞社で、海外の新聞社のキリスト教関係トップ記事を日本語訳して社長を通してキリシンHPに掲載しています。良かったら、ご覧ください。半分は私が訳した記事です。http://www.kirishin.com/page/2/

私も肯定派です

コメント失礼します。
自分の周りの人は否定派が少し多いです。でもこの話を見ると、少し心が落ち着きます。
大切な人を思い出した時や、落ち込んでる時にこの記事を読んでいます。希望が持てます。
神は絶対に失望させないという言葉を信じています。